昭和45年06月13日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来る事はできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
信心の稽古と言う事しっかり信心の稽古をしておけ。それはまめな時ここへ参って信心のけいこをしておけと。ですから今日私はこの信心の稽古と言う事を、どう言う所に焦点をおいて信心の稽古をするかと、いう事をこのその一つ前の「70節」に「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ」と仰る。そういう信心を身につけておく稽古しておく、稽古の焦点と言う事を今日はその所を聞いて頂きたい。「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならん」。
どういう所が万物の霊長としての値打ちというかというと、良心的であるという事だと思うんですよね人間は。他の動物にはそれがない。万物の霊長の人間にだけそれがある。ですからそう言う所其れもまた、ならその良心とかその心というものをどういう風に高めていかなければならんかというと、又その前の69節にですね「十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ」と、言う様な言葉がありますね。
だからわが心を祀ると言う事、是も万物の霊長でなからなければ、出来る事でない訳ですね。自分の心を祀ると言う事は、私はまつる自分の心を祀るというんですから、自分の心が拝めるという事だと思うんですね。だから自分に自分の心が祀れる様な心を目指していくと言う事、「まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ」と。「ここへは信心のけいこをしに来るのである」と、ならその信心の稽古をですね。
焦点がそこにおかれる万物の霊長としての、いうならば値打ちを愈々そこに、なら万物の霊長の値打ちはどこにあるかというと、自分で自分の心を拝める程しになれるということ。そこの所が焦点。そういう稽古をさせて頂いておるから、私は夜夜中にどの様な事が起こってきてもです、おかげはわが家で受けよという、わが家でおかげが受けられるおかげの受け物。信心が段々確固たるものになって来るんだと、言う事です。
そこでそのならどの様なふうに稽古をさして頂くかと言う事なんですね。私共が色々心に難儀を感じます。腹が立ったり淋しかったり、悲しかったり又はイライラしたりと言う様な自分というものが。ですからその心が我ながら自分、自分の心をその祀るとか拝める様な時はですね、これが信心のない時であったら腹も立っただろう、さぞかし悲しい思いをした事であろう。
けれども段々おかげを頂いて、その心が腹が立つどころではない、悲しい思いをする事ではない、神様にお礼を申し上げる心、心の中に嬉しい喜ばしい心と、ゆとりのある豊かな心と、言う様な心が信心によって鍛えられておる。いわゆる健全な心が段々出来ていき、ですから腹が立つとか、いわゆる難儀を感ずるという事は、もう心の不健全さを物語っておる様なものですね。心が不健康なのです。
ですから自分の心が不健康であるという事を知る。そしてそこから自分の心の健康を願っての信心、その健康を願う事の方法が、私は教えを頂くという事であり、またその教えを行ずるという事だとこう思います。例えば私共は何か心が本当に健全でない証拠に、今申します様に腹が立ったり、楽しかったり悲しかったりと言った様な事がある訳ですけれども、それをね腹が立つからというて。
もうそのまま剥き出しに腹を立てる。そしたらですねもう実をいうたら万物の霊長としての値打ちはない訳です。他の動物でもやはり腹を立てることだけは知ってますよね。ならもう犬でも猫でも、腹を立てたりすると「ウー」っちいうて、あのうやっとる時に腹立てとる時でよね。ですから腹が立つからつちいうて人間も「ウー」っちいってから言いよったら、猫と同じ事っちゆう事になるわけです。
万物の霊長としての値打ちは、その腹の立つ様な事であってもですね、それをね健全な心であればもう腹は立たないのですよ、本当はけれども不健全である証拠に心が不健康である印が、腹が立つのですから。けれどもそこんところが万物の霊長としての値打ちはそこからなんです。それをジッと押さえる事が出来ると言う事です。私はもう言う事だけ言わにゃでけん、ていうならねもう言やあもう後はサッパリする。そんならもう犬でも猫でも同じ事です「うー」っち言いよるとと同じ事です。
それをまあいかにも良かつのごと言う人があります、腹がたったらポンポンしてみよる。犬猫とひとつも変わりませんそれをね、例えば押さえられると言う事。それを信心さして頂く者は信心で押さえると言う事。金光様金光様、金光様と、自分の心をいわば投げ下ろす様にして、金光様金光様、唱えておりますとそれが言わんで済む様になる。そして同時にですこの位な事が、いわば腹の立つ自分であるという事。
それは心が不健全である、心がまめでないと言う事を悟らしてもろうて、これは愈々自分の心の治療とでも申しましょうかね。心を愈々豊かに大きく頂く為の信心の稽古をせにゃならんという事になります。そしてそれがです本当にそのような、例えば腹の立つ様な問題を押さえれる。是は腹が立つという事だけじゃないと思うんですよね。自分のしたい放題な事をする。いわゆる自分の我情というものをです、その満たすごとするわけね、自分のしたい放題の事をする食べ放題な事を。
中々しかしそこんとこの稽古っていうのは難しいですね。その辺の所が身を慎めとこう言う様に教えておられますが。慎むという事は中々難しい事です。夕べ私御祈念がすんでから、昨日はどうしてか夕食の時に食事が、あの頂きたくなくてから。したら御祈念がすんだらとたんに、おなかが空いてきた。何か食べたいと言いましたら、おまんじゅうを頂いとるからち言って。
それからおまんじゅうを食べて、どうもそれだけでもまだいかんけん、まあ何か食べたいち言いよったたら、公ちゃん来てから、「何か作りましょうか」ち、お茶ずけでも。横には家内がおってから、こげんして「ああたばっかりゃたまがる」ち言ってから。それで結局ならまんじゅうを三つか四つ頂いてから、してまたお茶漬け一杯頂いて、まあその時ちょうど良かったごたったけれど、さあ今朝はどっこいまた水をさっさと頂かんならんような風にある訳ですよね。
昨日だからあのままいわば身を慎んでおったらですね、今朝はとても爽快だったろうと思うんですけれど。こりゃもう食べ物のことでもそうです、中々ね難しい事ですよ。飲みたいから飲む、食べたいから食ぶる。これだったらもう本当言うたら犬猫と同じですよね。もう鶏なんかはもう餌をやったらもう自分のこの、胃袋がね破れるまで食べるて事ですね与えたら。もうこう大きくなるでしょうが胃袋が。
それがその分からんとです。まあ私は夕べの私はそんなもんじゃなかろうかと自分で思う。いわゆる卑しいわけです。ですから私共がそういう本当に自分ながら恥ずかしい様な卑しい心といったようなものを、その時に発見するのですから、または明くる日になってそれを感じておるのですから、はあ是はいっちょ卑しい心を改めなきゃいけないなあと、やっぱり本気でそれに取り組まして頂くのは人間より他にない。
他の生き物ではできん。これは食べ物の事でもそうです。ところがどうもやっぱり、その食べ物に弱いわけですね私が。ほいでいつももう是だけは家内に軽蔑されておりますからしょうがない。もう是だけでいつももう家内。私の方の家内はもう絶対間食やら致しませんもんね。まあいわゆる口綺麗なんです。ですから私がその卑しい事だけはもう、ま軽蔑されても仕方がない。
それにはやはり私軽蔑されまいと思うならばです、本当にその卑しい心を取り除かなきゃ、その事に努めなければならない。今朝の御理解を頂いてからそげん思うです。是だったら鶏も同じ事でとこう思うわけですから、そういう心を本気でそれに取り組むと言う所にです、人間万物の霊長としての値打ちがある訳です。そしてその卑しい事をしない事が、どんなに体に良いことか、どんなに気分が良い事かと言う事を体験させて頂かなければならん。例えばそれをなら腹の立つような問題になっても同じこと。
ですからそれをね、食べたいから食べると、心にその言いたいから言いたい放題な事をいうと、いうたのであってはもう信心を頂いておる値打ちはない訳で御座いますから。そう言う事に、私は焦点を置いて信心の稽古をさして頂く。言わんで済む私その様な場合に腹八分で食べんで済む私。そういう心がね段々稽古されて行く所にです、わが心を祀れという、わが心がわが心を、われながら拝める様な、おかげが頂けて来る様になると思うです。今日はひとつ、本気で信心の稽古の焦点と言う所をです。
万物の霊長でなからなければ出来ないところの、いわゆる自分の心の貧しさというものを、様々な時に気付かして頂いて、その貧しいその心に糧を与える。その貧しい心を健全な心にしていく事に努力する。それは私共が自分を自分で、いわば抑制するとか、または反省するとかまたは慎ませて頂くとか、そういう事ができるのは人間だけだ。そう言う様な事に特にひとつ、今日は焦点をおいてわが心が、わが心を祀れれる様な、拝めれる様なおかげを目指して信心の稽古をさして頂きたい。
昨夜の御理解の中に、今日只今の時点においてです、感謝の心というものが頂けていなかったらです、もうそこには必ず感謝の心の反対の不平不満の心があるんだということ。これはどのような、例えば他所から見たら難儀と言った様な場合であってもです、もうその現在その身そのままがです、本当いうたら感謝をする心というものは、あるのが当然です。ところが現在今の心を見てみてです、そこに不平を感じ、不足を感じておるとするならですね、それは受けておるおかげに対する、ひとつの暴虐ですね。
その神様のおかげをおかげと感じていない時ですから、その事の心の取り直しをさして頂かなければいけないという事です。もう確かにですね、思やあば思うほどおかげを受けておるという事がね、思やあ思うほどおかげを受けておるなという事が、実感さして頂けておる時には、不平不足なんかは起こりませんよね。その時その時の時点にいって、その感謝の心、おかげを頂いておるもんであるという事なんです。
昨夜の御祈念つかえさせて頂く前に吉井の熊谷さん、それから善導寺の原さんがお参りになっておられましたが、お礼を言うておられますのが、もう本当に今歯の治療に熊谷さん通うておられます。それにもう歯の治療にかかられて初めて、気付かせて頂くおかげというものがですね、もう本当に何とも言えん、今まで気がつかなかったところへ、まあお礼ばかりを申し上げておりますとこう言われる。
ところが昨日はあの歯ではなくて、その何か骨を削るかどうかせなきゃならんと言う様な、まあ大大変なまあ痛い事だったらしいんですけれどもね。もうそん時に瞬間親先生ーというその祈りと、思いが胸にいっぱい、その込み上げるように感じた時にですね、そのそれが済んでおって、もうあのおかげ頂いておった。けれどもやっぱそれほどしの事ですから、帰ってからもやっぱ気分が悪くて、昨日美登会でしたけども、この模様なら美登会にはご無礼しやこてと思うておった。
そしたら表のほうから「熊谷さぁん」て言って言われるから「はい」ち言うちから行ったけど誰もいなかった。そしたら裏の方からまた「熊谷さぁん」て誰かがおらぶ。それからまた裏さえ行ったけど、裏にも誰もいなかった。もうそん時にですね、はあ是は不思議な事もあるもんだと思う時に、自分のあの心が爽快になったち。で今日はおかげで、美登里会に出席する事ができたというふうに言っておられますが。
もう本当にどういう中にでも神様のお守り、ご守護というものを受けておる事を実感そうした時にです、気分の悪いのすらが、もうすでにおかげを受けておられるという事なんですよね。昨日も原さんのお願い、お届けを聞きよりましてもです、まあ普通の者ならば、いうならば腹の立つような事柄の中に、もう本当にそれがもう有り難いち言うてお礼ば言うておられる事を聞かせて頂きながらです、ああ信心ちゃあ有難っ、いわゆる心がだんだん健全になっていきよんなさる証拠なんですね。
まあちょいとどうしたこつ、どういうこっちゃかのと、言いたいような事の中にどういう事どころじゃなか、却ってお礼を申しあげておれれる心というものがね、自分で自分ながら有難い。いうならそういう時が、我ながら自分の心を拝めておる時なんです。私そういう2人の話聞かせて頂きよった時に、フッと自分でですね、感じた事は是は本当に、私がもしですね、もう一寸背が高かったらですね。
私今頃おらないだろうという事です。私があの兵隊検査の時に、私は五尺二寸でした。でしたから、もう一寸高かったら甲種合格じゃったんです。そしたら私一緒に受けたあの、甲種合格の人達は皆んな戦死しとるです。本当、まあ一寸ほどのとかて不平どん言う段のこっちゃなか。本当に改めてですね、背のこまかった事に昨日、お2人のその喜びの事を聞かせて頂きよったら、そのことをフッと自分の心に思うてね。
それで御祈念すぐかかりましら、御祈念の時本当に五尺二寸であると言う事の有り難さをお礼申させて頂きよりましたら、かチーッとおいさみを頂きました。それこそ生まれて五十何年ぶりに初めてお礼を申し上げた、背がこまかった事に対してです。だから神様のね、お働きの中にもうとにかく、そつのあるはずはないのですけれどもそれを不平不足で受けるから、それがそつな事になってしまうのですよね。
と言う様にです、もう段々分からして頂きゃ頂くほどですもうお礼を申し上げ、どの様な場合でもどの様な時でもです、その時点において有り難いとお礼を申し上げて、何もないほどしのおかげを受けるのが本当なんです。それがそれが分かる事がそれを頂けておる時が、心が健全である時なんです。けれども私共がです、今申します様に腹が立ったり情けなかったり、腹がたったりしたかったりと言う様な時です。
したい放題食べたい放題、言いたい放題の事をです、言うのであったらもう犬猫と変わりはない。万物の霊長としての値打ちはそこにはない。そこで私共はその事に取り組ませて頂いてです、万物の霊長としての万物をみて道理に合う信心を私共さして頂いて、いわゆるそこん所身を慎めと仰っしゃる、身を慎まして頂く心を慎まして頂いて、稽古をさして頂いていく内にです、はあ言わんで良かったと例えて言うならね。
腹を立てんでそれを表さんで良かったという体験が積もり積もって、それが十年と信心が続いたら、我とわが心が祭れれる様な私は願いをかけての信心。私はここには信心の稽古をしに来るのであると言う事は、そういう事を稽古に来るんだと思う実を言うたら今も申しますよう、健全自分の心が健全になればです、もうそれこそもう本当にもうどこに不平が不足がある言えれる筈ではない私。いつでも感謝で心が一杯である筈の私でなからなければならん。是が本当なのですけれども私共それが気がつかない。
それこそ私が五尺二寸であるという事の喜びをね、お礼を何十年ぶりに、いわば生まれて初めてさせて頂いた様なものであります。というほどしに神様のおかげというものは、いわば私共の周辺に、また私の上に満ち溢れておるほどに頂いておるのですけれども、それが気がつかんで不平を言うたり、不足を言うたり腹を立てたり、悲しかったりしておるわけであります。
ですからそこん所をです、私共が稽古させて貰うと言う事は、慎まして頂くというそれを押えさして頂くという、いわゆる金光様、金光様という金光様におすがりをしながら、おかげを頂いていくと言う様な生き方こそがです、万物の霊長にふさわしい、私は信心の稽古の姿ではなかろうかと思う。それがつもりつもって腹をたてんで済む様になり、我とわが心が拝めれる様になり、いわゆる和賀心が自分の心の中に、愈々頂けれるおかげを目指しての信心、自分の心の健全をいよいよ願っての信心。
そこに夜夜中どの様な事が起こっても、まあ慌てんで済む驚かんで済む、それをおかげにして頂いていけれる心が頂けれるのだとこう思います。信心の稽古の焦点、取分け今日は万物の霊長としての値打ちを、考えさせて貰うて是であったら、ここで腹たてとったら、もう犬猫と同じだというふうに自分というものを一つ思うてもろうて、霊長としての違いを発揮していく事にです、焦点をおいて信心の稽古をさせて頂きたいと思うですね、
どうぞ。